変容の運河へ、「帰れなさ」とともに
〜七尾旅人『Long Voyage』と、その航路によせて
安東嵩史

〈X〉

 筆者はかねて「七尾旅人の歌には『神』がいない」と考えてきた。「神様」はポップソングの中に、信仰などなくてもイージーに引っ張り出されがちな言葉であるが、確認する限り少なくとも音源として発表されている七尾の曲の中には初期の「萌の歯」において皮肉っぽく引き合いに出される<神サマ>と、『Stray Dogs』収録「迷子犬を探して」に出てくる、いなくなった犬の居場所を決して教えてくれはしない、いるのかどうかもわからない<かみさま>の二曲以外には登場しない。いくつかの宗教においてそのしもべとされる「天使」は七尾のイマジネーションを託す存在としてかなり頻繁に登場するのに対し、「神」そのものは彼の歌世界にほとんど不在と言っていい。神話や宗教の教義においてしばしば「神」は父のメタファーとして人間の行動を規定し規制する存在であり、妻や子や他者を力や威厳で支配する父権性の表象である。そうしたパターナルな思想が七尾の楽曲の中には極めて希薄であるという意味でも、単なる用語の問題ではなく、七尾旅人の歌には「神」がいない。想像の世界へと跳躍するようなタイプの曲も含め、そこには泥に塗れながら苦悩する人の営みと、その人間くささの依代のような、非力な「天使」がいるだけ。その両者ともが、七尾が見た父の似姿なのかもしれない。

 その『喜ばしき知恵』(*19)で発した<神は死んだ!>という叫び(一二五節)があまりに有名なフリードリヒ・ニーチェは厳格な神学者の一族に生まれながら、エディプス・コンプレックスによる通過儀礼のように、絶対的な存在としての「神」を知性の力によって否定しようとした。だが、その思考は神学において重要視される魂や霊よりも身体を称揚し、そのたゆまぬ“健全性”を追求することで新たな超越者=超人の現前を目指す優生思想へと傾斜していくことになった。同じ『喜ばしき知恵』において虚弱で障害をもった子供を殺すことを<聖なる残酷>として描き(七二節)、<(嵐や懐疑や害虫や悪意に)堪えられるほど強くなかったら、そんなものは折れてしまえばよい!>と叫ぶ(一〇六節)、その新たな父神としてふるまうがごとき声に、現代の我々は自分たちがたまたま乗り組んだこの船の暗澹たる姿を重ねるだろう。この「『パン屋の倉庫で』」は家族の歴史のほかに、津久井やまゆり園の事件も念頭に置いて作られたという。七尾が曲中に現前させたのは超人ではなく、障害者たちの命とともにあろうとした、弱く優しかった父と母の姿である。その姿を正面から捉え、自らと再接続するように始まりの物語を描くことができるほど、七尾は「ゼロ地点」から少しだけ距離を取ることができた。
『兵士A』『Stray Dogs』と自己の切迫する内面を作品化している間、彼はずっと「ゼロ地点」にいた。この二作の制作中は他者の音楽をまったく聴くことができず、ただ己の内面と対話するのみだった七尾だが、この『Long Voyage』の制作を経て、また音楽を聴く気持ちが戻ってきたという。その意味では彼もまた、カタストロフからの回復過程にいる。時間の経過や犬たちとの暮らしが彼をそこに連れてきてくれたことは間違いないが、回復を図る語りの根源は、自分が<どこから来たのかを>思い出し、自身あるいは大切だった人々や物事の記憶をこの世界にログとして残しておきたいという心情なのではないか。私たちは、彼らは確かにいた。そう語ることの、祈りのようなもの。この歌に描かれた若き日、ジャズが大好きだった父が演奏を聴きに足繁く通っていたという梅津和時のサックスだけが、その言葉に寄り添う。

「ダンス・ウィズ・ミー」で、七尾は現在をともに生きる家族たちのもとに戻ってくる。「Rollin’ Rollin’」と同じくDorianの参加のもと、同曲を想起させるループのリズムに乗せて歌うのは、嵐の時代をくぐり抜け、もう一度誰かに<二人で生きようよ>と投げかける、普遍かつシンプルな祈りである。それ以上の含意を込めたわけではなかった七尾だが、本作リリースに伴うある取材の中で、聞き手に「これは同性婚の歌なんじゃないか」と問われたことが印象に残っているという。予期せぬ読み解きだったそうだが、本作のトータリティの中において、それは確かに困難の中で「誰かとともに生きる」ことを切実に願いながら叶わないものたちの声としても響く。大切な存在と<二人で生きようよ>という最低限の願いさえも奪われ忘却される人々がいる現実は確かにある。聴くものによってそのイメージの先はさまざまだろうが、この社会の傾きの中で、根源的でパーソナルな祈りとしての<二人で生きようよ>という言葉が包括する切実さは、それだけ大きい。

 最終曲の「미화(ミファ)」というタイトルは、七尾が二十年ほど前に出会った、彼のリスナーであった在日コリアンの女性の名から取られている。正確には、当人の妹からの「姉が飛び降り自殺を図ってしまい、生死の境をさまよっているので応援してください」というメールがきっかけでその存在を認識することになった人物である。メールのやり取りをしながら励まし続けていた二人の願いも虚しく、彼女は帰らぬ人となった。
 在日と呼ばれる人々は好き好んでその呼び名を冠され、日本に暮らしてきたわけではない。この国の帝国主義的近代の中で無理やり「天皇の赤子」とされてその母なる岸辺を引き離され、敗戦後は外国人登録令によってふたたび赤の他人のように国家の保護や補償の外に放り出され、世代を経てもなお、その時間の続きを生きながらさまざまな差別や不公正に晒されてきた。その中で直面した何らかの辛苦なのか、あるいはそれ以外の個人的な理由なのか。ミファの身を屋上から躍らせたものは、何だったのだろうか。<わかりきれない無言の時>が、ここにも横たわる。七尾は彼女のことを幾度か歌にしようとしつつも、これまでそれができずにきた。生前に密なやり取りを交わすことが叶わなかったがゆえにその無言の深さ、声なき声のか細さに相対する己の立ち位置を定めきれていなかったのかもしれない。しかしながらその存在は七尾の心中にずっと残り続け、《それ以降に作った歌の中にも、ミファはしばしば忍び込んでいる》という。
 だが、予期せず放り込まれたパンデミックの中で他者の声を聴き続けるうちに、その時間の蓄積がふと形になった。人々が語る経験や思いから何かを感得しては間をおかず歌にするという日々の中、それぞれの生の切実さに改めて触れることで、ミファの生を形にする術が生まれたのだろう。それが、曲中に顕著なように、その名を何度も何度も呼んでいくことだった。それにより、そこには固有の生がある/あったことが示される。
 現在から見れば時代の中にかき消えていっただけのように見える過去の幾多の人々にも顔と名前があり、現在の我々と同じように、ただ無力や辛苦の中に打ち沈むだけではない生の奥行きもあった。ミファの生もまた、ただ結果論的に「虐げられてきた集団に属する、無力で哀れな女性」として記号化されるようなものではなかったはずだ。ついぞ知り合い得なかった、けれどそこに確かに存在した立体的な生の主体として、その名を七尾は呼ぶ。名もなき存在とされてゆく人の名を何度も呼ぶ、そのことは翻って、「国民」「サラリーマン」「主婦」「在日」「トランスジェンダー」「移民」といった属性のみを示す言葉で記号化され、数値化され定量化され、その固有性を簒奪されてきたすべての人に顔と名前を取り戻す行為でもある。そのリフレインにいつしか、これまで出会ったすべての顔と名前が流れ込み、幾多の人々の「帰れなさ」が多声をなしてきたこの『Long Voyage』は静かに、しかし確かな生の気配とともに終わっていく。

 いや。最後に霧の中からもう一度、一艘の筏が帰ってくる。掌ひとつに収まりそうな、小さく原始的なそれは、神の意志に添うものだけを選別して救うノアの方舟ではない。弱きものを海に放り捨てながら大きく強くあろうとしてきた末に自壊を始めた近代国家でもない。舵もエンジンも武器も奴隷も乗せることなく、一人ひとりの固有の生の極相へと流れてゆく筏だ。この最終曲「Long Voyage 『筏』」によって、物語はこの先の流れへと続いていく広がりを得ている。
 このように言葉もなくただ何かを差し出すようなエンディングは七尾のアルバムとしては珍しいようにも思えたが、よくよく考えてみれば近作のいずれも、最終曲はインストゥルメンタル的でこそないとはいえ『billion voices』ではしばしの静寂のあとに笑う赤子の声とギターのストロークが、『リトルメロディ』では「おっきなメロディ!」と嬉しそうに喋る、もしかすると遠い時間の先にそれを受け取る子供の声が、そして『Stray Dogs』では「ワン!」と吠えて聴くものを呼び戻す犬の声が、最後に必ず含まれている。背景のまったく異なる作品のそれぞれに、そこに乗せられた歌と物語の続きを自分自身ではないものの声に託して複数の、より遠くの時間へと手渡すような試みがすでに行われてきていることに、改めて気づかされる。それがより具体的な形をとったものとして、この「筏」はある。ぬぐいがたい寂しさを抱えながら、それでも誰かに何かを手渡そうとするその意思に、筆者は七尾旅人というシンガーのもうひとつの核心を見る。