変容の運河へ、「帰れなさ」とともに
〜七尾旅人『Long Voyage』と、その航路によせて
安東嵩史

〈VIII〉

 きわめて多声的であったDisc1からブリッジとしての「Long Voyage『停泊』」を経て他者性を極限まで遠景に退けたこの「荒れ地」へと至り、聴くものは明確に、ここまでその巧みなストーリーテリングの中に七尾の「個の物語」が流れ続けていたことに気づくだろう。そして、それが「ドンセイグッバイ」へと接続される。本作収録曲の中でもっとも『Stray Dogs』のモードに近い2019年には原型ができていたこの曲は、七尾自身が経験してきたいくつかの大きな別れに捧げた楽曲である。曲想として前作収録の「Leaving Heaven」と近いものを感じはするが、徹底して自己の内面と向き合い作られた同曲と比べると、「ドンセイグッバイ」では大比良瑞希というデュエットパートナーを迎えることを前提に制作したことで詞作のなかで出来事との適切な距離が生まれ、七尾という個人の核心にあるものを委ねながらもきわめて普遍的な歌詞とメロディを持ったものとして成立している。その共存によってこの曲は、この世界において幾多の望まぬ別れを経験してきた人々の喪失や欠落に寄り添う力を獲得した。
 だが、それだけではない。この世界は別れに満ち、それでもなお、そこから始まる流れに満ちている。別れを経験せぬものがいないように、そこから何かが始まらないものもまたいない。<君を待てずに落ちてくる>星々のように七尾と大比良の歌声に寄り添い響くコーラスは、そうしたすべての声である。別れという隔て、忘却という隔て、死という隔てをすべて越えて、過去や未来のあらゆる時間に存在した/する人の声が、今という一点に降り注ぎ、流れ込む。その“共悲”はやがて大きな川へと至り、人をまた新たな想像力の岸辺へと運んでいくだろう。今はまだ、その時ではなくとも。そんな、来るべき時間への予感を孕んだ楽曲でもある。

 ショットはそこから目の前の一人だけを真正面からフォーカスする、本作においては珍しいほぼ固定の視点に移る。「if you just smile」という言葉は、交流のある筋ジストロフィーの詩人・相羽崇臣が始めた配信番組に「タイトルをつけてほしい」と言われ、相羽が考えた二十近くの候補の中から七尾が選び出したものだ。それに触発されて七尾の中に湧き出したメロディが、ショーロ・クラブの沢田譲治のストリングスアレンジによって静かに、かつ豊かにハーモナイズされ、「if you just smile(もし君が微笑んだら)」となった。
 七尾はこの曲について、《目の前の一人に向けて歌いかけるような構図ではあるけど、特定の誰かというよりは、今まで自分が出会って思い入れを持ってきたすべての人に向けた歌のような感じがします。まだ出会っていない、今後も直接には出会うことのない人たちの存在も念頭において歌うような曲ですね》と語る。

 出会い、あるいは別れ、今はもう目の前にいない人も含めて、その困難のあとにあたたかな光が射すようにと祈るとき、そこに浮かぶのは、まず悲しみを湛えたその顔だろう。悲しみや苦痛といった感情は、人生を瞬時に不穏なものにする。平穏な日常が強い力で瓦礫(デブリ)と化し、顔面に現出する。表情は解剖学的には顔面の筋肉の動きによって表出する物理現象であり、永遠には持続しない。だがイメージは持続する。イメージの中の瓦礫は、その当人だけでなく、見るものにもまた、己の日常もまたいつでも瓦礫と化すのだというイメージを刷り込む。それゆえに、人は他者の悲しみや苦しみを自分の生きる世界から切り離し、「なかったこと」にしようとする。瓦礫のイメージから目を逸らしていれば、自分だけは安全であると思い込むことができるからだ。
 七尾は「TELE○POTION」(2014)で<同じ夢を見たいのに BABY 東京は踊ってる>と歌ったが、東日本大震災とコロナの時代が身も蓋もなく明らかにしたように、人は「自分」という最小単位を保全し続けるために他者の苦痛から目を背け、とっくに荒廃を始めていることに気づかぬふりをして幻想の安全圏内で踊る生き物である。その心性は政治的、あるいは経済的な力によって容易にコントロールされ、社会構造化される。いつしか瓦礫はその固有の記憶とともにノイズとして除去(イレース)され、体制化された最大多数にとって居心地よく、後ろめたくなく、扱いやすい空間が、ときに“公共”空間のような顔さえしてグランドオープンする。民主国家と名乗る公的な力が本来実現するべき”平等”は”均質”へとすり替えられる。そこで「なかったこと」にされてゆく個々の生の、一つひとつの顔を見て覚えていようとする意志の最もミニマルな形として、この「if you just smile(もし君が微笑んだら)」はある。

 本曲中には<星影をたどり 長い長い夜をゆく/誰かが気づくまで ここに私が居ることを>と、一箇所だけさりげない視点の転換が用意される。『Long Voyage』完成後に制作された「ホームレス・ガール」という楽曲を聴いて、真っ先に連想したのがこのヴァースだった。
 東京都渋谷区のバス停で路上生活者の女性が近隣に住む男に撲殺された事件(*16)をベースに<誰かあの子の あの子の 名前を知らないか/誰も君の 君の 名前さえ呼べずに>と歌うこの曲を、七尾は2022年11月に東京・渋谷のMIYASHITA PARKで行われたイベントにおいて演奏した。この場所は、旧宮下公園に居住していた路上生活者を強制排除のうえ建設された巨大な商業施設の屋上に作られた“公園”である。空間をことごとく資本化し、そのコードにそぐわない存在をノイズとして除去(イレース)しておきながらコモンを僭称する、この荒廃の本丸のような場所で行われるイベントに七尾が出演すると聞いて違和感を感じなかったといえば嘘になるが、それは「この曲を歌わせること」という条件を主催側が受け入れてのことであったと知り、腑に落ちた。この社会が排除し、忘却してきた生を<ずっとここにいた>ものとして歌で記憶し続け、歌で呼び戻す。七尾旅人は、ずっとそういう歌い手であり続けてきた。

 歌を作り始めた理由について、不登校の中学生であった自分を心配した祖父に連れて行かれた神戸で、阪神・淡路大震災により瓦礫と化した街を目にしたことだった、と七尾は語る。そこで芽生えた思いをカセットテープに吹き込んだことが、七尾にとって「音楽を作り、残す」営みの始まりになった。

《不登校児だった頃、僕は家族の中で一人だけ、何も覚えていられない子供でした。妹や弟が覚えている楽しい思い出も、なぜか僕からは抜け落ちていて、頭の中では悪いイメージばかりを反復していた。でも歌にすれば覚えていられた。忘れたくないことを音楽の形にしてテープに吹き込んでおけば、強力な記憶媒体として成立するし、そこでは誰も気に留めないような言葉だって、メロディやリズムで多彩な表情を獲得する。生きたものに変わる。それに夢中になった》

 揺らぐはずのない日常のすべてを一瞬にして瓦礫に変えてしまうものがあることの忘れ得ぬ衝撃、そして作曲という行為を通して意識化された記憶と記録という概念に対する思いは、たやすく誰かの存在を忘却していく力学に抗い続けてきたその姿勢にそのまま通じているし、同時にそれはかつての安全圏の記憶から抗いがたく遠く遠く離れ流されてきたこと、誰もがそれを避け得ないことへの、個としての悲しみに表している。それはすなわち、本作の初回限定版予約特典として制作されたカセットテープに収録された「テープがのびたら終わり」という楽曲タイトルが示すような、どこまでも有限であるこの生の悲しみである。
 それゆえに、七尾はこの荒廃の時代にあってどれほど人間に絶望しても、すべての人が最後まで保持しているはずの固有の記憶と、それを意識したとき同時に持ちうるはずの他者の固有の歴史に対する想像力への祈るような信頼を絶対に手放そうとしない。そのことが、どのような主題を歌おうとも七尾の歌に奥行きを与えているのだ。