変容の運河へ、「帰れなさ」とともに
〜七尾旅人『Long Voyage』と、その航路によせて
安東嵩史

〈VII〉

 Disc 2は船や航海と境界を越えた人の移動にまつわる長い長い歴史とともに進む「Long Voyage『停泊』」で幕を開ける。アメリカ大陸に最初の黒人奴隷を運んできた17世紀初頭の奴隷船ホワイトライオン号や2020年のダイヤモンド・プリンセス号のようなDisc1を想起させる内容を盛り込みつつ2022年のロシアによるウクライナ侵攻までを語る間に<意図せざる航海、停泊。>と繰り返されるフレーズは、ともすれば遠い歴史上の点として見てしまう出来事の一つひとつに人間がいて、そしてそれぞれの「帰れなさ」があったことを改めて立体的にする。近く遠く、さまざまな場所でさまざまな人の「そんなつもりではなかった」動きが、それにともなう決断や離別や疎外や停滞や喪失が寄せては返し、去っては現れてきた、そのうねりが作る世界。その流れの中に、サイパンで玉砕を免れた祖父、そして犬たち(亡くなった兄犬と、その後に出会うことになった子犬)といった七尾自身に関わるエピソードが織り込まれる。今はいなくなった者たちの息遣いが濃厚に残る中、これからの生を予感させる子犬のエピソードが最後に語られることによって、澱のように疲れと倦怠を溜めながら(七尾はこの語りをなるべく無感情にするため、あえて真夜中の疲弊しきった時間に録音したという)流れてきた船がふとほの明るい浅瀬に漂着したような、それでもまだ船底に重々しさを残したままのような、不思議な余韻が残る。

 続く「荒れ地」では、その重さ、その波の連続性からいったん引き離されて広大無辺の荒野に放り込まれたように、唐突なほど開放的な音像が広がる。ただ一本道のほかに見渡す限り何もない乾いた荒野は、そこに誰がいて何を考えていようとまったく無関心に、気の遠くなるほど長い時間、ただ同じように存在し続ける。その中心に置かれた自分自身を極限まで引きの構図で捉えたような視点設定は、絶え間ない価値判断の連続や数えきれない因果の果てに存在していることを意識すればするほど身動きが取れなくなっていく(<立ち往生してる>)世界を離れて己を一度まっさらな場所に配置し直し、ただシンプルに己の人生観や死生観と向き合うことを自らに許すような抜けのよさがある。
 この抜けは『リトルメロディ』『兵士A』『Stray Dogs』といった近作には見られなかったものだ。東日本大震災以降、大きな外的トピックやさまざまに顕在化した社会構造の歪み、それらによって生じた心中の揺らぎに大きく共振しながら作品を生み出してきた七尾だが、それを駆動したのは、以前から彼の根底にあった《変わっていかなければ生きられない》という思いだった。「荒れ地」の曲中に登場するギターのボトルネックの音と十字路のイメージで連想する人も多いかもしれない「ブルーズの帝王」ロバート・ジョンソンは名曲「Hellhound on my trail」で<動き続けなければならない><行く手にいつも地獄の猟犬がいる>と、己の生につきまとう何かから逃がれるように前に進まねばならない焦燥を歌っている。七尾の場合は《人間になりたくて、どうしてもなれないという気持ちで生きてきた》。心中にぬぐいがたく住み着いてしまった地獄の猟犬のような疎外感を友としながら、同時になんとかその疎外感を克服したいと願い、他者との関係を構築しようと不慣れな手つきでもがく中で、それでも己の中に変えがたく残るものがある。七尾は《それこそが作家性とか、自分の本質のようなものかもしれない》と語ったが、単なる運命論や現状追認ではない、嵐のような時間の末にたどり着いた現在地で自分自身のあとさきをフラットに見るがらんどうのような心が、七尾にこの曲を作らせているのかもしれない。地獄の猟犬だと思っていたものは、もしかすると今は二匹の犬の姿をしているのかもしれない。

 ただし、この抜けのよさが希望なのか、それともやがて新たな閉塞へと至るものなのかは、まだわからない。生きている以上、運命はどこへでも流転していくのだから。だが、そこには少なくとも、どちらに転んでもいい自由が存在する。
 フランスの造園家にして思想家のジル・クレマンは人間の尺度において無価値な場所というニュアンスのある「荒れ地」を逆に生の可能性が溢れる場所として<人間がそう感じるのとは逆に、荒れ地は滅びゆくこととは無縁であり、生物はそれぞれの場所で一心不乱に生みだし続けていく>(*15)と説き、施主という権力的主体のために人為的に区画され、その生と力を固定させようとする執着を示すように不変のもののごとく管理された近代的庭園の外、そうした尺度からは価値のないものとされているその場所にこそ変容し続ける生の極相へと至る可能性があると語る。ならば、世界の隅々にまで広がりつつある社会統制の欲望によって馴致され体制化された、すなわち不動産広告のCG画像のように一見整えられながら「逸脱は許さない」というメッセージを送ってくる荒廃の風景のなかを生きる現代の人間にとって、「荒れ地」を思うことは、そうした真の荒廃への抵抗に他ならない。広漠とした余白の空間に残された、まだ名前もない自由。それを最後に残ったアコースティックギターがワンストロークで短く奏で、曲は終わる。