変容の運河へ、「帰れなさ」とともに
〜七尾旅人『Long Voyage』と、その航路によせて
安東嵩史

〈V〉

 パンデミックはこの世界に無数のポイント・オブ・ノー・リターンを撒き散らし、人の数だけの「帰れなさ」を露わにした。『Stray Dogs』からの流れが一旦強制的にリセットされた七尾旅人は、彼のもとに吸い寄せられるように集まる声や、この時代の底流を流れる声からその「帰れなさ」を聴きとっていっただろう。その声が、あの時見ることのできなかった流れの続きへと七尾を導き、そして『Long Voyage』に響く多声を導いている。
 そのことは七尾のまなざし、あるいはそれが投影されたショット(ビデオカメラを回し始めてから録画が終わるまでに撮影された画)とでもいうべきものの変化に最も顕著である。『Stray Dogs』ではどうしても念頭においてしまう大きな出来事があったがゆえにショットは常にストレートに自らの意識の向きとリンクしている印象を受けたが、今作、特にDisc1においては、そのまなざしの指向性は多様に変化する。

 冒頭の「crossing」や「未来のこと」では隣にいる誰かとの時間や空間にフォーカスする一人称的なまなざしがあるが、続く「Wonderful Life」では、冒頭で幸福を噛み締める誰か、その屋上から飛び降りようとする男、その上を飛ぶ渡り鳥、濃厚接触を恐れながらも生活のために夜の街に出るシングルマザー、その帰りを待つおそらくは七尾自身が投影された子供、それぞれの交錯することのない視線が描かれる。そこにそれぞれの固有の生の時間を語る言葉が続くことで、各登場人物は一コマだけのカットではなく天上の鳥から路上の母親までを捉えるロングショットの中に生き、どこかで連環の中にいるものとして描かれる。
 印象的に挿入される「oh yeah」というクワイア(ゴスペルの聖歌隊)のボイスサンプルは聴く人によって様々なゴスペルや黒人霊歌、あるいはソウルの名曲を想起させるだろうが、個人的にはアリーサ・フランクリンが1972年1月13日と14日、伝説となったロス・アンジェルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会でのライブ(*8)で披露した「Climbing Higher Mountains」が思い出された。遠い昔に引き離された故地、あるいは来世に約されていると信じる神の救いを家と見立て、<私の帰り道はいつでも石ころだらけ><家に帰るためにもっと高い山を登る>とパワフルに、しかし切実に、自身とコミュニティの「帰れなさ」を歌うアリーサ。その声に次々と声や身体、そして心を重ねていく聴衆。そんなふうに、人々は誰かと孤独を分け合うことで、自らをなんとか立たせてきた。その五十年後に「Wonderful Life」で七尾がクワイアを捧げるのは、その最後のよすがさえ絶たれつつある人たちだ。
《このボイスサンプルが、アウトロから同じキーのまま「入管の歌」の前奏につながることで遡ってこの曲も不穏なものに響くのが気に入っていて、この順番にはこだわった。二つの家族の歌の対比にもなっているんだよね》と七尾は言う。その「入管の歌」では前曲とは対照的に、アクリル板で完全に隔てられながら切実に交錯する視線、そしておそらく目の前にいる人間たちの生になどまったく無関心にその様子を見つめる管理者の視線も存在するであろう入国管理局の面会所の情景を、小さな女の子の視点から、いわばワンカメで捉えている。このナラティブの設定も、入管における、最低限守られるべき人権すらも無視した収容者の扱いを三分間で描き切るためのテクニカルな意図である。人間を隔てるアクリル板はこのパンデミックにおいて定着した日常の風景も想起させ、自由な往来を阻害し管理する力学と、コンクリートの箱の中で息詰まっていくすべての人々の存在もどこかに感じるが、曲としてはコンパクトなまま終わることでナラティブの分散を防いでいる。

 そして、そのショットが五百年余という長さを獲得し、最後にそれをぐっと手元のリアリティに手繰り寄せる振り幅の大きい構成になっているのが、本作のひとつの核とも言える「ソウルフードを君と」である。大航海時代がその引き金をひいた人類のグローバルな移動が私たちの近代に何をもたらしてきたか、その結果として「帰れなさ」の中で辛苦に喘ぐことになった人々の心を食という営み、その反復(つまり、リズム)がいかに支えてきたのかを描くこの九分間の叙事詩は、「入管の歌」で描いたように自と他を選り分け、他者と認定したものを征服し、排除し、搾取する日本社会の今をつくった構造を遠い過去から続くものとして提示した点で、同じベクトルにありながらショットの構成だけでなく曲の長さ、ナラティブの多彩さ、すべてが対の関係になっている。
 コロンブスから奴隷貿易へと至る五百年前の人の動きはそのまま、移動がそのままリスク要因となったパンデミックや、七尾が出会ったアフリカ人の父を持つミックスの少女エリザベスが日々直面する差別、海の向こうで上がり続けるBlack Lives Matterの叫びに直結している。つまり、ここで物語られるのは決して自分とは無縁の遠い過去ではなく、かつて種を蒔かれ、そこから連綿と続く近現代――私たちも紛れもなくその一員である、加害と征服の数百年の連続性である。そこに自身のフードレスキューを踏まえた語りも加えながら、「食」は決して単にカロリーを摂取するだけの行為ではなく、そこにソウルが、いわば自尊の感情や他者への信頼があって初めて人の営みたり得るのだという根本概念が示される。

 曲の終盤では世界各地の料理の名が、七尾と交流のある、多様なルーツや背景をもった子どもたちの声で呼ばれる。食べ物の名前は、多くの人にとっておそらく人生の最初期に耳にし口にする母語(mother tongue)である(「カレー」などの外来語であっても、多くの場合それは母語の発音や抑揚によって発語される)。それは、ときに長じてなお視覚や味覚といった周辺的な記憶と相まって過去の時間の中で自分を形成してきた固有のmother tongueを、その言葉で表現される味や景色を、そしてそこから現在にいたる時間の流れを思うよすがになる。
<都会育ちのあの子のスープ 今日はなんだか懐かしい味/忘れようもないこの酸味 悦びと悲しみ 遠い故郷の景色>というヴァースで、その心的作用は七尾自身へと接続される。これは彼の故郷・高知の名産である柚子や文旦などの柑橘をイメージしながら書かれた歌詞だが、大きな射程をもつ楽曲にもパーソナルな要素を挟むことは、七尾のソングライティングにおいて重要なポイントである。歴史や他者の苦痛にいかなる思いがあったとしても、それを単に俯瞰でのみ歌うことは、彼の言葉を借りると《フェアではない》。《どこかに自分の血をまぶさないと、歌にリアリティが生じてこない。もちろん、奴隷として連れてこられた人々やその子孫である方々と比べるとレベルは違うけど》と前置きしつつ、自身もまた故地を遠く離れて流れの中に生きているものであることを示すことで、歌には七尾の抱く「帰れなさ」が託される。そのことによってこの歌は七尾旅人という個人のナラティブによって作られる必然性を獲得するとともに、幾多の人々が己を重ね合わせ、その孤独を休めるよすがとなる懐の深さを獲得している。

 もうひとつ重要なのはこの楽曲が、「LIFE HOUSE」第12回(*9)に出演したサウンドエンジニアの中原楽が七尾とのセッションに際し「(音楽の演奏をできるわけではない自分が)音響としてどう音を発するか」と考え、自宅で味噌汁を作る際に発されるそのサウンドを中継しようと発案したことに着想を得て作られた事実だ。
 料理をする習慣のなかった中原にとって、味噌汁を作ることは紛れもなくパンデミックがもたらした経験のひとつである。人がその生を持続させるために新たな経験へと向かう、本能的ともいえる心の動きに即応した七尾は、《(音楽を始めた)90年代の中頃によくあったような、思いつきはするけど、普段は引っ込めてしまうようなアイディア》である跳ねるリズムのブルース進行に乗せてメロディを作り、自身も含む無数の人々の経験を乗せた詞を託した。録音に際しては前作『Stray Dogs』からの付き合いのバンド編成ではなく、コントラバスの瀬尾高志をはじめとするジャジーな編成によって、この曲の背景に流れるアメリカ南部の文脈を感じさせる演奏が行われた。《ちゃんと録音するとまでは思わなかった》と本人は語るが、発端となったパンデミックという状況も含め、この楽曲は制作経緯のほとんどにおいて内発的な要素ではなく外的な社会環境や短期間に多くの人々と密度の濃い対話を行っていくという実践のなかで輪郭を作っていったことで、「多声である」「数えきれない固有の経験の集合体である」「長い流れの中で意図せざるところに運ばれていく」という、いわば本作『Long Voyage』の本質を一度に顕現させるようなものになっている。