変容の運河へ、「帰れなさ」とともに
〜七尾旅人『Long Voyage』と、その航路によせて
安東嵩史

〈II〉

 多くの人を乗せて長い時間と空間を旅する乗り物としての「船」はしばしば、ある一定の方向に進む個人や集団のメタファーとなる。「船出」「泥舟」「呉越同舟」、「針路」に「船頭」、あるいは「暗礁に乗り上げる」のような慣用的な表現は日本だけではなく世界中に無数に存在している。集団が大規模であればあるほど例えの中の船は大きくなり、その集団の力や正統性を示すモニュメントとしての性質を付与されていく。自動車や飛行機といった新しい乗り物に比べると、船や航海が表象してきたものはとても古く、そして大きい。

 旧約聖書の『創世記』によれば、自らが創造した人間たちの堕落に激怒した神は、その心に沿う“正しい人”であるノアに方舟を建造するよう命じた。船が完成し、ノアが自らの妻、三人の息子とその妻、そして地上のすべての動物たちのつがいを収容すると、神はそれから四十日と四十夜の大洪水を起こし、方舟に乗ったもの以外のすべての命を滅ぼしたという。こうした方舟伝説はギリシア、インド、北欧などにも残っている。洪水でなくとも、神の意志によって選ばれたものが船に乗って遠方から訪れ、自分たちの祖になったという建国神話は日本やイタリアなどにも残っている。

 その逆もある。古代ギリシアで紀元前3世紀ごろ書かれた叙事詩『アルゴナウティカ』は、勇士イアソン、豪傑ヘラクレス、音楽家オルフェウスといった、いわば神話の英雄のアベンジャーズ的なオールスターキャストが神の意志によってアルゴという名の船に乗り込み、遠い東方の蛮族から金の毛皮を奪いに向かう旅の様子を描く。神話の主神ゼウスからして各地で女性を強姦じみた真似までして略奪する逸話に事欠かないギリシアでは、当時は<力の行使は神々の絶対性を示す表現>(*1)であり、対立する都市を襲っては略奪を働く海賊たちはむしろ英雄であった。アキレウスやオデュッセウスといった神話の英雄たちも船団を率いて他国に押し入り、財宝や婦女を分捕ったと誇らしげに語った、と史書には記されている。

 1465年、スペイン。ときのカスティーリャ王エンリケ四世の木像がアビラ市外に置かれ、身につけた冠や宝剣といった王権の象徴をことごとく剥ぎ取られて地面に蹴落とされた。イスラム教徒の支配下にあったイベリア半島をカトリックの手に奪い返すレコンキスタ(国土回復運動)の熱狂のさなか、その中心的な担い手であったカスティーリャの王たるエンリケは世継ぎの男子を作ることもなく、また、ムスリムとともに排斥対象となっていたユダヤ人と宥和的であったことで「不能王」というあだ名までつけられた。先に挙げた辱めはエンリケをいわば擬似的に“去勢”し、その柔弱さを嘲笑するものであった。
 エンリケの死後に後を継いだ妹こそ、1492年にイベリア半島をスペインの手に取り戻し、クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)を新大陸に送り込むことになるイサベル一世である。女性であったがゆえに兄王の何倍もカトリックの守護者たる勇ましさを演出する必要があったイサベルは苛烈な異端審問を開始し、ムスリムやユダヤ人を迫害した。1497年には「自然に反する」として男色を火あぶりの刑にすると定めている。彼女の送り出した船団は“新大陸”に暴力と疫病、そして現在まで深く根づいたカトリックの信仰と、副作用としてのマチズモを持ち込んだ。

 父なる神の名のもと、船はまず宣教師や商人を新世界へ運び、そして兵士と武器を運んだ。征服された土地からは富が、そして奴隷や労働者が、望まぬ海を渡った。学者も気まぐれに随行し、行った先で文物や人々を分類し、選別し、収集した。スペインが先鞭をつけた帝国主義的近代の最後尾に、天皇という即席の神を戴く明治日本は参戦した。近海に現れる欧米列強との漁業権をめぐる争いに開国当初こそ遅れをとっていた日本だが、1883年以降、まず朝鮮半島に漁業権の保障を求めて乗り込むことになる。その動きはやがて日清・日露戦争へとつながり、1910年には朝鮮併合、そして果ては南太平洋へと版図は拡張する。帝国の膨張の最前線には、常に漁船と商船があった。その次に軍艦が訪れた。獲得した広大な“外地”――朝鮮半島、台湾、満州へと多くの人が渡り、現地からもまた多くの人たちが兵士や労働者や慰安婦として、望まぬ海を渡った。

 朝鮮半島の南に浮かぶ済州島は、高麗王朝から李氏朝鮮王朝時代にいたるまで中央に対する周縁の地として扱われ、罪人や流人の送られる島であった。1629年以降、済州の住民は島外に移住することを禁じられ、それは1923年に労働力を求める日本が解除するまで続く。差別によって厳しい暮らしを余儀なくされていた済州の人々は、宗主国である日本へと出稼ぎに向かうようになった。特に、当時アジア最大の工業都市であった大阪へと向かう航路は一大出稼ぎルートとなったため、 済州島系の人々は現在も関西の在日コリアンの中で大きな割合を占めている。必ずしも望まぬ移動ばかりだったわけではなく、大阪で財を築いて済州島に帰省したものの記録も多く残り、その豊かな暮らしに憧れて、また大阪へと渡る人々が増えていく。
 日本人からの差別にも耐えつつ底辺から日本帝国を支え、異郷でささやかな暮らしを築いた人々は、1947年、「外国人登録令」(*2)によって突如日本国の保護外に放り捨てられた。同じ頃、アメリカの軍政下にあった故郷では政治不安が顕在化しており、やがて1948年4月3日から四年半の間に約3万人が同胞によって虐殺される事態(四・三事件)へと至る。戦後の混乱期、故地に帰ることもままならず、よるべのないままこの国で暮らす選択をしていった幾千の人々。彼らを運んで往復し、ときに故郷から切り離すメディア装置の役割を果たした船は、その名も「君が代丸」といった。

 アジア・太平洋戦争末期、日本軍は沖縄島を本土防衛のための「不沈空母」とする方針を定める。急ピッチで飛行場や軍事施設の建設が進められ、そしてその武装化ゆえに、沖縄戦において米軍による凄惨な攻撃の的と化した。戦後の沖縄島は今度はアメリカの極東戦略における「不沈空母」と位置づけられ、米軍基地や施設が密集する。お先にさっさと主権を回復した日本が憲法で定めた基本的人権すら保証されない暮らしの中、米兵に体を売って生きる女たちや、誰にも望まれず生まれ、多くは成長できなかった混血の赤子たちの姿を、詩人・仲地裕子は第一詩集『ソールランドを素足の女が』(思潮社、1973年)において切々と描いている。
<ああ お母さま/かぎりなくきらめいて/血の色した船が出帆しましたのに/球形のまま両手で顔をおおって/赤ちゃん死んでいる>(所収「泣きわかれ」より)
 日本とアメリカの間に置き去りにされ、欺瞞の中でよるべなく漂う故郷を、仲地は沖縄南部の石灰質の土壌を作る珊瑚由来の炭酸カルシウムの結晶にちなみ「カルサイトの筏」と呼んだ。

 1985年、かつてアフリカから奴隷船に乗せられてアメリカ大陸にやって来た人々の子孫である作家オクテイヴィア・E・バトラーは、創世神話や建国物語に溢れる方舟譚を下敷きに、宇宙からの帰還船に潜んでいた未知の病原菌が、その感染者が産む子をスフィンクスのような四足獣という「他者」に変えていく様を描くディストピア小説『Clay’s Ark(粘土の方舟、未邦訳)』を上梓した。侵略と混淆の中世〜近現代史の記憶を残すものたちにとって、彼方から到来する方舟は純粋な同一性を担保された人々の創世神話などではなく、災厄と侵襲、そして固定された自他の境界を越えて「まだわからないもの」へと変容していく生の表象となっていた。

 2014年4月16日、韓国。前日に修学旅行中の高校生325名を含む476名を乗せて仁川港を出港した客船セウォル号が珍島沖で沈没する。乗員乗客の死者299名・行方不明者5名、加えて救助関係者8名の死者を出したこの惨事は韓国の人々を震撼させた。事故の重大さはもちろんのこと、利益を第一に杜撰な管理や違法改造の上で運行させていた船会社、乗客を置き去りに真っ先に逃亡した船長と船員、腐敗や怠慢捜査によりろくに機能しなかった海洋警察、不適切な言動を毎日のように垂れ流す高官たち、隠蔽あるいは改ざんされる記録の数々、そして事故後の選挙で惨敗が予想された与党が予想以上の議席を獲得するや謝罪のポーズをひっくり返し、事故原因を「船体の破損」「外部衝撃」のみですませて早々に幕引きを図る政府と、次から次へと社会の膿が噴出していったからだ。
 権威権力に近いものだけが得をし、不正義や汚職が横行していたことが白日のもとに晒され、誰もが国家に傾き沈みゆく船のイメージを重ねた。作家キム・エランがエッセイ「傾く春、私たちが見たもの」の中で<この傾斜をどうするか。すべての価値と信頼が滑り落ちてしまうこの絶壁、儲けばかりは上に上げ、危険と責任はいつも下に押しつけてくるこの急で危険な傾きという問題に、どう答えを見つけていったらよいのか>と書いた(*3)ように、この事故は、韓国の人々の心にぬぐいがたく重々しい問いと、変革を求める火種を残した。その火種が2016〜2017年の蝋燭革命(*4)においてひとり一本の蝋燭を灯し、政権を打倒することにつながる。